目を覚ましたラビが一番最初に見たのは、泣きはらしたリナリーの顔だった。 コムイの姿もあったから、彼はまず一番に神田のことを訊ねた。 コムイは苦々しげな顔で、それでも笑みを作って見せて、成功したよ、とぽつりと言った。 すごく、怒っていたよ。 よかった、そう言ってラビは笑った。 よかった、なんか知らねぇけど俺はユウと話せないみたいだから、ユウのこと、これからも教えてくれると嬉しいさ。 すかさずリナリーに平手で打たれて、ラビはぽかんと彼女を見た。叩いた彼女の方がずっと痛そうで、目を細める。 「リナ・・・・・」 「馬鹿よ、ラビも・・・兄さんも!!」 リナリーはそれ以上何も言わなかった。神田がどうとか、そういうことは一切。 「・・・・・なぁ、コムイ」 「なんだい」 「ユウとは話せねェの? 絶対無理?」 「無理じゃない・・・らしいけどね。詳しいことはわからない。 今こうしてラビが”出てきて”る時は、神田くんは君の中で眠っているような状態なんだと思う」 二人の意識が起きた状態ってのも理論的には可能なんだけれど、とコムイは続けた。 「・・・・・・ユウの体は」 「まだ、死んでない。治療中だよ。持ち直す確率はゼロに近いけどね」 「いいんか? AKUMAと戦うので忙しいのに、ユウのためだけに、こんな・・・」 「・・・いいんだよ、エクソシストは特別だからね」 失う訳にはいかないんだ。そう言ったコムイの表情は、彼がうつむいて帽子を目深にかぶり直したせいで確認できなかった。 ずっとぎりぎりの状態でもっていたユウの体に限界が来たのは、先頃の任務でのこと。 ユウは相変わらず無茶な戦い方をして、深出を負って、それはいつものことだけれど、いつもなら治るはずの傷は癒えずに ただユウの体力を奪うばかりだった。 教団に着いた時にはもう手遅れになる寸前で、俺がユウに会えた時には、それこそ虫の息で。 頭が真っ白になって、無我夢中で助けを求めて縋りついた俺に、コムイが差し出してくれたのは残酷な希望だった。 ユウの意識だけを、俺の中へ移植する。 魂だけ保護してあげる様なものさ、とコムイは科学者らしからぬ喩えを挙げた。 ユウの体は素人目に見たってもう駄目だと分かった。だから、心だけ保護して、体の方は駄目もとで治療を続ける。 この方法なら治療の幅も増えるし、万が一のことがあっても、ユウは”死なない”。 それでいい、と二つ返事でうなずいた。非常識な案だろうと関係ない、それくらい俺の思考は麻痺していた。 ただ突然に目の前からユウが奪われることに耐えられなくて。念を押してくるコムイの言葉も、ろくに聞かないまま。 何をどうしたのか、どうなったのか。さっぱりわからないがユウはきちんと俺の中にいるらしい。それを聞くだけでも、 凍っていた体中の血が温度を取り戻すようだった。 胸を占めるのは安堵と、悲しみと。 その日から俺とユウの”同居”生活は始まった。 ラビの姿をした神田は、苛立ちにまかせて拳を壁に叩きつけた。 「チッ・・・・」 何もかもが腹立たしくてならなかった。 自分がこうして生きていること、俺をこんなにした周りの選択、こんな俺を見る周囲の目。 思うようにならない体も、この体が他でもないアイツのものだということも、何もかもが。 なにより気に食わないことは、この怒り全部をぶつけるべき張本人にはどうしたって会えないことだ。 アイツはとても近くて、最も遠い場所にいる。 机の上に目を転じた。ブックマンとラビの部屋。膨大な書類の上に、くしゃくしゃになった小さな紙片が乗っている。 それは先ほどまで俺が握りしめていたものだった。目を覚ました俺が手に持っていたもの。走り書きの字で、一言。 元気? ・・・・・・・・・・・・あの大馬鹿野郎を怒鳴りつけてやれたら、少しはすっきりするのに。 「何やってるんですか神田」 「・・・・・・うるせぇ」 「元気そうでなによりですけどね。・・・・・もう、大丈夫なんですか」 「・・・・ハッ」 中に入ってくることはしないで、戸口から、どこか気づかうようにかけられたモヤシの声を鼻で笑い飛ばした。 「何が」 「え」 「何が大丈夫だ、この状況でよくンなことがほざけるな」 「・・・・・・・・」 「・・・・失せろ。人と話す気分じゃねェ」 「・・・・・・・・・神田」 「失せろ」 「随分・・・・・・荒れてるみたいですね」 「聞こえねェのかアホモヤシ!!」 「ラビが、気になりますか」 「・・・・・・ッ」 動揺した。ラビという名前に、心臓がはねた。舌打ちをもらす。 ”持主の名前”に勝手に体が反応しただけだと、自分に言い聞かせる。 アレンは苦笑を浮かべた。 「馬鹿ですよね、ホントに」 「・・・・・・・・」 「・・・・・けど、僕がもしラビと同じ立場に立ったとしたら、きっと同じ選択をしたと思いますよ。 ・・・・・ま、AKUMAにされるよりよかったと思えばいいんじゃないですか」 「アイツが・・・エクソシストが伯爵の手なんか取るわけねェだろ」 「・・・・・・・そうですね」 モヤシの笑みは、自嘲的な、どこか皮肉めいたものに変わっていた。 すみません、おしゃべりが過ぎました、ではどうぞ、お大事に。言い残して、足音が遠のいていく。 拳が白くなるほどに強く握って、もう一度力任せに壁を殴りつけた。 この痛みは、アイツに届くのか。 何もかも腹立たしい。俺に憐れみの目を向ける奴らも。心配と称して、勝手なことをほざいていくモヤシも。 アイツを――ラビのことを好き勝手言う連中も、それを奴らから聞くだけで自分では何一つ確かめられない状況も、何もかも、何もかも。 皆、勝手だ。 残された奴らも、――そして、残して行こうとした俺も。 志も、使命も、中途半端に投げ出した、これはその、罰か。 「アレンくん」 「・・・・・コムイさん」 「何を話してたんだい?」 「大したことは。  ・・・・駄目ですね、あんなことを言うつもりじゃなかったんですが。見て、いられなくて」 怒らせるようなことを言えば、またかつての、生き生きとした彼が見られるかと思った。 あの体になってから、神田は六幻さえ手にしない。動かない。食事もろくろくとらない。ただ日々を過ごすだけ。 まるで、時を止めてしまったかのように。 ラビも少しおかしい。ため息が増えた。遠くを見るような目をすることが増えた。 なにかにつけて神田の話をするのは確かに以前からのことだけど、以前の彼がユウ、と口にするときは、あんな悲しげな顔を してはいなかった。あんな無理やり作ったような笑顔じゃあなかった。 「ラビと神田は、会えないんですか」 「・・・・・アレンくん」 「答えてください。 あなたがやったんでしょう、アレは」 「会えるよ。・・・・・・・会える、はずなんだ。 たとえこの世で、向かいあうことができなくても、心の深い所で。 意識のずっとずっと奥、胸の裏側。 たとえば、そう」 夢の世界で。 ここはどこだろうと思った。ふわふわした感覚、現実味のない景色に、夢だろうかとぼんやり思いいたるまでに数秒。 ラビは手で額を抑える仕草をした。 ここのところは眠りが深いのか、夜は瞬く間に過ぎ去って、夢を見る暇もなかったのに。 ふ、とラビは視線を転じた。自分の視点で物を見ているはずなのに、その自分を見下ろす自分もいる。主観と俯瞰。 どこまでも眺め渡せるようで、数メートル先すらはっきりしない不思議な世界。ああ、夢だ。 この夢はどう進行していくんだろうか。主人公側からではなく客席側から物語を見ることに決めて、ラビはただその場に突っ立っていた。 誰かが向こうからやってくる。 その人影は最初おぼつかない足取りで、かと思えば急にスピードを上げてこちらに向かってきた。 走ってくる? 人? 人影であることはわかるのに、それが誰だかはっきりしない。 普通なら顔かたちまではっきり判別できるほどの距離まで迫ってきても、なぜか頭は”それが人であること”しか認識しない。 混乱をきたしかけたラビの頭の中に大音声が響いた。 「こんの・・・・大馬鹿野郎!!」 「・・・・・・・・・・あ」 霧が晴れるように人影が形をあらわしていく。見慣れた姿。思いきり眉間に皺を寄せたその人の顔が一瞬だけ見えて、そうして消えた。 気づけば、朝。 俺は天井に向かって腕を伸ばして。 掴むものもなく中途半端に浮いた手をぱたりとベットに落とし、深く息をついた。 あの人が生きていれば何でもいい。そう思ったはずなのに。 「ユウ・・・・・・・」 名前を呼ぶことさえ許されないの。       ・BACK・  ・NEXT・