部屋を出て、ビルの狭い階段を駆け降りる。 急くあまりに足がもつれ、一瞬ヒヤリとしたがなんとか踏みとどまった。 何度かそうやって足を踏み外しかけたり、つんのめったのを手すりにつかまってこらえたりしつつ、 ようやくたどり着いた勢いそのままで。 桂は一階の出入り口のドアへ、体当たりせんばかりに飛び込んだ。 [いつか来る別れの日] 通りの向こうに、上から見えた人影を確認してほっと胸を撫で下ろす。 よかった。 間に合った。 「トッシー!!!」 腹にグっと力を入れて、その男に聞こえるよう大声で桂は叫んだ。 先を歩く黒髪の男は、声が届いたのかぴたりと足を止め、緩慢な動作で振り返る。 視線が交錯する。 しかし男―トッシーと桂の眼が合った瞬間、トッシーは弾かれたようにその場から逃げだした。 「なッ――!?」 事態が飲み込めず、一瞬反応の遅れる桂。 それでもすぐに我に返ると、慌ててトッシーを追って走り出した。 「トッシー待て!!」 「・・・・・・・・ッ」 「おい! 聞こえておるのか!? なぜ逃げるトッシー!?」 先をゆく男の背に怒鳴りながら、桂はその距離を徐々につめていく。 トッシーは何も言わず、振り返ることもななく、ただハァハァと息を切らしながら、追いつかれまいと必死になっている。 疑問符ばかりが頭を埋め尽くしていた。 自分がトッシーを探しているように、トッシーも自分を探しているのだろうと、漠然とそう思っていた。 ヅラ子氏、会いたかった、とかなんとかいって、駆け寄ってくるものとばかり。 なぜ避けられる? 土方十四郎本来の姿で動くことに決めたにせよ、逃げるという選択肢には結びつかない。 ひょっとして俺はもの凄く嫌われていたんだろうか。 騒ぎを機に俺の元を離れられて、せいせいしていたのだろうか。 ちくりと胸が痛んだ。 同時に、何が何でも真相を聞かねば、強く思う。 得体の知れない黒いビニール袋やらダンボールやら、たまたま寝ていた浮浪者やらを、避け、時に蹴飛ばして。 薄汚れた壁と壁の隙間を、二人はもの凄いスピードで駆け抜けていく。 「トッシー!!!!」 幾度目かわからない呼びかけ。 声を張り上げ過ぎたのと走ったので、喉がヒリヒリと痛んで、桂はわずかに顔をしかめた。 それでもまた、叫ぶ。 「トッシー! いい加減に返事をしろ! 俺の喉を潰す気か!」 ぴくりと、一瞬トッシーが反応したように見えて、桂は更に言葉を重ねた。 「トッシ・・・」 「もう・・・・・・ハ、僕の、こ・・・とは、ハァ、放って、おい、て、・・っくれ・・・・・」 桂が叫ぶのを制すように、乱れた呼吸の中から返事が返ってきた。 「ぼ・・・・くには、ハァ、もう・・・も、ヅラ子氏、の、そ・・ばに、っい、いる、資格なん、て・・・・・」 「なんだ!? 聞こえんもっとはっきり喋れ!!」 「・・・・・・・・・」 桂は耳に手をあてがいながら怒鳴るが、トッシーはそれきりまた口を閉ざしてしまう。 ただお互いの荒い呼気だけが耳についた。 追いつくまでもう少しの距離まできて、桂は少々強引にスピードを上げ、手を伸ばす。 しかし気づけば道は下り階段にさしかかっていた。 靴のトッシーはスピードもそのままにかけ下りて行く。 桂の手はむなしく空をきった。 すぐに次の段がせまる。 予期せぬ段差にぐらりと体が傾ぐ。変な足の運び方をしたのか、片方の草履が脱げてしまう。 それだけで終わればまだしも、そのまま足をもつれさせ、階段も随分高い位置で完全にバランスを崩してしまった。 体に浮遊感を感じ、一瞬先の衝撃を覚悟して、桂は身を固くした。 おとずれたのはしかし、予想よりも随分軽いものだった。 落下が止まって、桂は恐る恐る目を開けた。 自分の体は誰かにがっちりと抱え込まれていて、目の前にはその人物の胸板がある。 下敷きとなって桂を守ったトッシーは、小さく呻いてみじろぎした。 抱きこむようにして庇われていたため、桂は今仰向けになったトッシーに乗り上げる形になっている。 トッシーが起き上がれるようにと慌てて自分も身を起こそうとした桂だったが、腕の力は存外に強く桂をおさえつけていた。 頭も胸に押し付けられて、トッシーの顔を見ることさえ叶わない。 「トッ・・・・・・・」 「・・・そのまま聞いてほしい。 僕が手を離したら、振り返らず、さっさとここを離れてくれ」 「・・・・・・・聞けない願いだな」 「お願いでござる」 「わけを」 わけを話せ。 トッシーはまた黙りこんだ。 やがてぽつり、と口を開く。 「・・・・・・僕はヅラ子氏の傍にいる資格どころか、合わせる顔すらないから」 「何を言う? 資格なぞ――」 「あなたはそう言ってくれる。 でもぼ、僕だって一応男なんだ。 プライドくらいある」 「居候の身が気に食わんのか?」 「違う。 僕が自分を許せないのは――あなたを置いて逃げたことだ」 心なしか、自分を抱く腕に力がこもったような気がした。 「・・・あの状況では自分の身を守るので精一杯なのは皆同じだ。 俺も、同志たちも、誰かの助けをアテにしている者など一人もいない。お前が気にすることはない」 「またそうやって・・・・・どこまで優しいんでござるか、あなたは」 「優しいというか・・・事実を言っているだけだぞ、俺は」 「と、とにかく――」 「お前が戻りたくないのならいい。 ただ、ひとつ聞きたかった」 聞きたくない答えを聞くことになるのかもしれないと、桂が身構えたのが伝わったのか、どことなく二人の間に緊張が走る。 「なぜ逃げた? 俺に会うのがそんなに嫌だったか?」 「言ったじゃないか! あなたに合わせる顔なんてなかったんでござる!」 「む。 しかしだな、あそこまで必死で逃げなくてもよかろう」 「逃げるさ! もう二度とあなたには会わないと決めたんだ! ・・・っ会えば・・・」 会って嬉しい分だけ離れた時の寂しさがつのる。 離れたくなくなる。 ・・・・・・・一緒に連れて行ってくれと言いたくなる。 「今だって・・・離したくない、ずっとこうしていたい。 ・・・・・好きなんだヅラ子氏。 あなたのことが・・・」 「俺もお前のことは好きだぞ」 「言わないで別れるつもりだったけど・・・って、え?」 「同じヘタレでも銀時よりよほどかわいげがある」 あっさり返ってきた桂の発言に、トッシーの思考は停止していた。 「す、すすすすすす」 「す?」 「好き、好きって、・・・え、好き?」 「落ち着けトッシー」 「・・・・ヅ、ヅラ子氏、今、なんて・・・・・?」 「落ち着けトッシーと言ったのだが」 「その前!」 「同じヘタレでも――」 「もうひとつ前でござる!」 「俺もお前を好きだぞ、と」 「!!」 トッシーの胸の上に頭のある桂には、ばくばくと早鐘を打つトッシーの鼓動がよく聞こえた。 何をそんなに興奮しているのかと首を傾げていると、徐々にそのリズムは平静を取り戻していった。 すっかり静かな旋律に戻った頃、桂を胸に抱えたまま、トッシーは静かに上体を起こした。 合わせて桂も身を起こせば、彼の膝の上に座り込む形になる。 頭を押さえていた手が外れたのでようやくと、トッシーの顔を見るべく顔を上げた桂の視界に飛び込んできたのは、 予想より随分近い場所にある黒い瞳だった。 心臓がはねるのを感じながら桂は口を開く。 「トッシー、無理にとは言わんが・・・・俺とと――」 共に来ないか。 中途半端に途切れる台詞。 その目に宿る強い光に違和感を感じた時にはもう、唇を塞がれていた。 軽く、触れるだけのキス。 呆けている桂の前で、トッシーはGジャンのポケットを探ると、取り出した煙草に慣れた手つきで火をつけた。 紫煙を、吐き出し、静かに立ち上がる。 「・・・・・・・・トッシー?」 「桂ァ、その先は言ってくれるなよ」 自分に背を向けて立つその後姿には、何物をも寄せ付けない強さがあった。 瞑目し、桂もゆっくりと立ち上がって、着物のほこりをはらう。 「・・・・・行くのか」 「あァ。 世話んなった」 「よせ。 お前に愁傷な態度を取られても気持ち悪いだけだ」 「・・・・・・」 「いつかこうなることはわかっていた」 いつかお前は自分の場所に戻って行くのだろうと。 「ではな」 「・・・・・次会った時は覚悟しとけよ」 「見つかるようなヘマはせん」 返ってきた憎まれ口にトッシーが――いや土方が振り向いた時には、桂はもう自分に背を向けて、 階段を上っていく所だった。 なんとなく彼が最後まで登りきるのを見届けて、その間ちらりとでも桂が振り返ってくれるのではと期待していた 自分に内心苦笑しながら、まだ長さのある煙草を放り捨てて足でもみ消す。 そうして土方も、静かにその場を後にした。 気づけば覚えのない場所にいて、途方に暮れるトッシーが新八に保護されるのは、その数時間後のことだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 土方さんに戻った第九話。 告白できたけど想いが伝わったかは微妙なトッシー。かわいそうに。
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