喧嘩でもしたのか、生々しい傷をいくつも作って、お世辞にもしっかりしたとは言えない足取りで。 毅然と歩くその姿は、薄暗い路地へと見送るには不釣り合いだった。 ぼろぼろのくせに。 いつ倒れたっておかしくないようなその猫は、きっと命を使い切るその瞬間まで、涼しい顔をしているんだろうと、 何の根拠もなくそう思った。 一度だけ合った目は強い光を宿し、近寄るなと言わんばかりで。 どこか見慣れた黒瞳を思わせたのだ。 [黒猫] 「――はい、報告ご苦労さま」 「おう。・・・・・――なぁコムイ、ユウは?」 「神田くんなら、一昨日から任務に着いてもらってるよ」 「・・・そっか。 んじゃ俺はこれで」 「あぁうん。 部屋で休むのかい?」 「読書・・・・・といきたいとこだけど、流石に疲れたさ〜」 用があるなら自室にいるからと言い残して、部屋を後にする。 別にこんなの、珍しいことじゃない。ニアミスでもなんでも、会えたならその方がよほど珍しいというものだ。 エクソシストの人手不足は深刻である。 彼の不在は、ある程度予想済みだった。そう、わかっていたことだ。 猫というやつは、自分の死期を悟ると、どこへともなく姿を消すという。 独りひっそりと、最期を迎えるために。 路地裏に消える黒猫に、どうしてか、あの人の後ろ姿が重なって見えた。 不安と呼べるのかすらわからない何かが、胸の奥にこごった。 『行ってくる』 ぶっきらぼうに告げられる言葉。 でもそれは、帰る意志があるということで。 そんな風にいつからか、確かめるようになっていた。 むろん、易々と生を投げだすような人ではないのはわかっている。 それでも、その言葉を聞けないときは、余計に不安が増す。 あれはいつのことだったか。 珍しくユウが教団にいるからと部屋を訪ねたら、例の如く包帯でぐるぐる巻きにされた彼がいて。 傷の具合とか、根掘り葉掘り聞こうとする俺に、ユウは面倒くさそうな顔で、それでもぽつりぽつりと答えてくれた。 こんなもん、もう治ってんだよ、と、軽く包帯を解いて見せてくれさえした。 そうしているうちに話題も尽きて、何の気なしに、切り出したのだ。 『ユウは猫みたいさ』 『あァ!?』 『そうそう、そうやってると総毛立てて威嚇してるみたいだし。 人に懐かなくて、でも気の向いたときには甘えてきて』 『刻まれてぇのか?』 『・・・いざってときは、ふっといなくなっちゃうんさ』 眉根をきつく寄せたまま、ユウは動きを止める。 『ね』 『・・・・いざって、なんだよ。 訳分かんねぇ・・・・・』 第一、お前に言われたくない。 確かに、ひとつ所に留まらないのはブックマンの性だ。 反論できずに、苦笑する。 『――なぁ、ユウ。 何かおかしいって感じたときには、俺にも教えて?』 『・・・何か?』 『・・・・・・頼むから、なにも言わずに出て行ったりしないで』 『・・・・だから、何の話だ・・・・・・・・・・ッ!?』 怒鳴る声を途中で止めて、ユウが瞠目する。 その瞳に、困惑の色。 どうしたのかと問う前に、舌打ちと共に吐き出された言葉で、ようやく状況を理解した。 『泣いてんじゃねぇよ、馬鹿・・・・・!!』 『ごめ・・・・』 自分の意思とは無関係に頬を伝うそれを、ユウが乱暴な仕草で拭ってくれる。 『うだうだ悩むのは勝手だがな、ちったぁ俺にも分かるように説明しろ!!』 『ごめ、ごめんさ・・・・』 ユウはまた深々と眉間に皺を刻んで、俺を睨み上げながらゴシゴシと涙を拭う。 困らせているのが申し訳なくて。 今自分に触れている存在が、どうしようもなく愛おしくて。 強く、強く抱き締めた。 『・・・・痛ぇ』 『・・・・・傷、痛むさ?』 『そうじゃねぇ。 お前が馬鹿力で締め上げるからだ』 『・・・ユウ、傷、消えてなかったさ。それって、梵字の効果が弱まってきたってことだろ。 ・・・・・・・・・あんま、無茶しないで欲しいさ・・・・』 『・・・んな心配する程のことでもねぇよ』 自分に身を預けながらも、ふいと顔を背けたユウに、そもそも俺がこんな気分になった原因の「猫の話」をしたんだった。 くだらないと一笑に付されて。 俺は人間だと、不機嫌に言われて。 合わせるように無理矢理笑顔を作ったけれど、それでも消えぬ不安。 それを、見透かすように。 『・・・・世話の焼ける野郎だ』 『ユウ・・・・・・』 『明朝発つ。・・・・・・・・必ず戻る』 これで満足かと言わんばかりの、やけくそ気味に放られた言葉。 特別でも何でもない―――見送る人間に対してかける言葉として、あまりにも普通な。 例えばリナリーだとかに、同じように返していそうな、言葉。 それでも、それに込められた想いは特別なのだと信じたかった。 『必ず戻る。 だから、もう泣くな、ラビ・・・・・・・』 ベッドが自分とは別の何かの重みで傾いだのを感じ、意識が浮上する。 嗅ぎ慣れた石鹸の香りに、目を閉じたまま腕を伸ばし、その主を探した。 「・・・おい、人が来る」 「大丈夫さ。 パンダは出張ってて今日は、帰って来ねぇし」 大体、気にするくらいならなんでベットの上まで上がって来たんさ? からかうように言うと、むっとしたのが気配を通じて分かる。 ふいに鼻を摘ままれて、俺はようやく目を開けた。 「ユウちゃーん。 苦しいさ――」 当然のごとく鼻が詰まったようにくぐもる声に、風呂上りらしいユウはにやりと笑った。 手が離れる。 「今帰った」 「ん。お帰り」 微笑んで、そうして思いきり抱きしめる。 キスしたいとかよりなにより、今は全身でその存在を確かめたい。 ユウはされるがままに任せていたけれど、ややあって心底呆れたような溜息を洩らした。 「でかい図体して、っとに情けねぇやつだな」 「うわ。 しみじみ言われると流石に傷つくんですけど」 「ならもっと言ってやるよ」 ヘタレヘタレと、幾度か楽しげに繰り返して、続きは笑いの中に消えた。 「めっずらし――・・・。 ユウが声立てて笑うなんて」 「あぁ? ・・・・・そうかもな」 「珍しいことされると気になるさ」 何かあった? 問いかけると、何もねぇよ、ほぼ予想通りの答え。 けれど、ほんの少し間があいた。 些細なことだが、妙にひっかかる。 「・・・ホント?」 「しつけぇな」 「目、逸らすな」 じっと覗き込むように顔を寄せると、案の定視線が泳ぐ。 顎を捉えて、ユウ、ともう一度呼びかけて。 ようやく綺麗な黒瞳が、俺の方をまっすぐ向いて焦点を結ぶ。 「お前に言ったからって、どうなるもんでもねぇよ」 「・・・でも」 「言えばまた、お前は心配するだろ。 ウゼぇんだよ、そういうの。 自分のことだけで手一杯のくせに」 言い捨てて、どこか苦しげに眉を寄せ。 言いよどむように目を伏せた。 舌打ち、ひとつ。 その様子に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 本人のが一層、不安だろうのに。 「ごめん・・・・・・」 手を外して、そっと頭を撫でる。 そのまま手を降ろしていって、髪をすく。 ユウは押し黙ったまま、ちょっと目を細めた。 「頼りにならんくて、ごめんさ」 「期待してねぇよ」 「・・・はっきり言うかー?」 「事実だろ、ヘタレ兎」 ふんと鼻を鳴らして、ユウは威儀を正すように、改めて俺を真っ向から見据えた。 「・・・いちいち報告なんかできるかよ。 けど、必ず、帰る。それだけは守ってやる。 ・・・・・・・これ以上こだわるようならたたっ斬るぞ」 「ユウちゃんそれ半ば脅迫・・・・・」 「るせぇ」 苦笑交じりのため息をついて、これ以上不機嫌にさせる前にと会話を打ち切り、抱き寄せる。 抵抗をやんわりと押さえ込んで、肩口に顔を埋めた。きつく目を閉じて、ユウの感触に、匂いに、没頭する。 おずおずと、俺の背にユウの手が回されたのを感じた。 どれだけの言葉を重ねられたって。 どれだけその姿を目にしたって。 君が急にいなくなってしまうんじゃないかって不安は、拭えっこないと思うのだ、本当は。 今日も自分に言い聞かせる。 大丈夫、あの人は、行ってきますと言ったのだから。 大丈夫。 ―――大丈夫、こんな言葉で、尽きることない不安を塗りつぶすのは、一体幾度目のことだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 某トリビア番組で思いっきり否定されてたネタですが。いいですよね・・・。 ・BACK・