そっと、そうできる限り静かにドアを開けて。 廊下の光がユウの眠りを妨げてしまわないように、素早くドアを閉めて。 配置なんてすっかり記憶しているユウの部屋。真っ暗でもつまずきようがない。 彼は床に物を放り出しておくような人ではないし。 急な用事を片づけて、なんとかかんとか明日の任務には間に合うようにホームに戻ってきた。 鉛のように重い体を引きずるようにして部屋へ戻る途中、ユウの部屋から気配を感じた。 戻ってきていたのか。 思ったら、もうそこから足が動かなかった。 ほんのちょっと。 また朝早くに出なくてはならないから。 ほんのちょっとだけ顔を見る、というか、ユウの気配を感じて、それから寝ようと思った。それだけだったのに。 起こすつもりはなかった。 ユウだって任務が控えてるだろうし。 会話なんてしたら、一層離れがたくなるのはわかりきっていたし。 少し掠れた声が、闇の中から俺の名を呼んで、どくん、心臓がはねた。 ああ、どうして。 起きていたんだろうか。 起こしてしまったんだろうか。 足音を忍ばせて入ってきた自分がひどく滑稽に思えた。 半分眠りの中にあるようなとろんとした声音で、呟くのが聞こえた。 「・・・・・・・帰って、きてたのか」 [幸運の確率] 「・・・おい?」 「起きてたんさ?」 「・・・・・・・さァな」 わかんねぇ。 寝てたような気もするし、ただ目を閉じてただけのような気もする。 そんな答えに、ユウらしい、と思った。 闇の中でユウのみじろぐ音が聞こえる。 「お前は」 「ん?」 「寝ないのかよ。もう結構な時間だろ・・・」 「そろそろ2時さね」 「・・・・・寝ろ」 「ここで?」 「好きにしろ・・・・・・」 投げやりな言葉。 寝がえりをうつ気配。 冗談で言ったつもりだった俺は思わず動きを止めた。 「ちょ、ユウさん?」 「あ? 朝早ェんだよ邪魔すんな。 お前も寝たきゃ好きに寝ろ」 「いや・・・あの・・・・・そ」 「・・・仕方ねェな」 ばさり、と掛布が持ち上げられたのが、徐々に暗さに慣れてきた目にうっすらと見えた。 「おら、入れ」 「・・・・・・・・・」 「・・・・寒いんだよ早くしろ」 「・・・・・・・・・・ま」 「入るのか入らねェのか!?」 「は、入らせて頂きますっ!!」 俺は慌ててユウの隣に飛び込んだ。 人肌に温められた布団のぬくみが、夜気にすっかり冷やされてしまった俺の体を包む。 突っ込んだ足がユウの足に当たった。 冷てェ、という不機嫌な声が思った以上に近くで聞こえて、俺は身を固くした。すぐ隣にユウがいる。 何か喋らないと。 何かって何を? 「ユ、ユウ・・・・・」 「・・・・・・俺は寝るつってんだろ。 話しかけんな」 「ご、ごめん。・・・・あのさ、ちょっと。ちょっとだけいい?」 「なんだよ」 ごくりと唾を飲み込む。 「どしたん? 今日――」 「なにが」 「やけに優しいさ、ユウ。 いつもなら、さっさと部屋へ帰れ―って追い出されるのに」 「眠ィんだよ。 追い出すのも、面倒くせェ・・・・」 ユウの声はだんだん小さくなって途切れた。 このまま寝ちゃうのかな、と、思った。不思議と心臓のばくばくは消えていた。 冷え切った体が温もりを取り戻すように、今胸を占めるのはただただ穏やかな気持ち。 愛おしい。 「眠いのに邪魔してごめんさ。 ・・・ありがと。もう、寝ていいよ」 「・・・勝手なやつ」 「だから謝ってんじゃん・・・」 「・・・・・・なんかあったのか」 「へ?」 「お前。 こんな時間に――俺が寝てんのわかってて来るような時は、大抵」 情けねぇツラしてやがる。 前触れもなく頬に触れられて、びくっとする。 闇を通して、じっとユウがこちらを見ているのがわかる。 「・・・・・なんも、ないさ」 「別に俺には関係ねーけどな」 「顔、見に来ただけで」 「・・・・・寝る」 頬に触れていた指が離れていった。 一抹の寂しさを覚えて、ほんの少しだけユウの方へ距離をつめた。 馬鹿みたいだ。こんなに近くにいるのに。 「なんも、ないんさ。 なんともない。 本当に」 「・・・・・・・」 「ただ、ちょっと・・・ちょっとだけでも会いたくて。またしばらく会えねーから・・・」 ユウは何も言わない。 言わないけど何もかも見透かされているような気がした。 ユウは帰って来たばかりだけど、それでも昼間のあの騒動を知らないはずがない。 教団にアクマが入り込んで、幾人も殺されて、俺が壊して止めた。 コレット。 ・・・・ダグ。 俺はブックマン。ブックマンでエクソシスト。 何にも心を移さない。アクマを壊すのが仕事。 ブックマンの名の下に、エクソシストの名の下に。孤独に生きているつもりだった。 昨日会った人間が今日はアクマかもしれない。そんな心構えで生きているつもりだった。 俺はまだまだ甘い。胸を焼くこの痛みがそれを証明している。 あのリボンをコレットの墓前に供えて。 それだけだった。俺にできることは何もなかった。何も、何一つ。 死者を弔うことは遺された者達の心を安んじる意味もあるのだという。 それなら、ぎりぎりと胸がしめつけられるだけなのに、自分の無力さに、この世の無情さに、打ちひしがれるだけなのに、 ただここに立っている意味はあるのか? この墓を訪なった、意味は。 形ばかり、頭を下げた。 ダグの代わりにリボンを届けて、それですべて終わりにするつもりだった。この出来事は過去のものとなるはずだった。 なのに、胸の深いところを苛む鈍い痛みが消えない。どうしても。 まだ気持ちの整理がついていないのか。 ホームに戻れば、ひと眠りすれば。次の任務につけばきっと忘れる。 そうやってうやむやにしてしまおうとして、ずるずると中途半端なままな俺を、ユウは。 ユウは”寝て”いる。 そう言った。 現に、何も喋らない。 つぅと、頬を生暖かいものが伝った。ひくり、と喉が震えた。 ユウは寝てる。寝てるから、誰も見てない。誰も知らない。俺は一人。だから、泣いていいんだ。ようやく泣けるんだ。 ひとりの男として。ダグの友人として。コレットの友人として。二人に起こった悲劇を、彼らに近しい人間として、悲しむ ことができるんだ。悼むことができるんだ。今の俺はブックマンでもエクソシストでもない。ただの人で、ラビっていう人間 で、俺は、ひとりで―― 俺は泣いた。腕を持ち上げて目を覆っても、涙は後から後から流れ出た。 嗚咽がもれた。みっともなく、無様に。それでも泣いた。ユウはみじろぎひとつしなかった。 ああ。 幾億の悲劇にまみれたこの世界で、今こうしていられることは、どれほどの幸運なのだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 久しぶりな気がするラビュです。そして原作沿いです。小説版「49番目の名前」とコミック初登場までの間のあたり。 明日の朝早い、と言ってるのはもう「巻き戻しの街」へ出発するからです。 ユウちゃんはマテール編後の任務を終えて帰ってきた所・・・みたいな。 ユウちゃんはこういう、さりげない気の使い方のできる子だと思う。       ・BACK・