もう名札の取り外された下駄箱に靴を押しこみ、来客用のスリッパをかっぱらって履いた。 空いた棚ばかりのなかに、誰かが置き忘れたというよりは意図的に放置されているような、 履き潰す寸前の上履きがぽつりぽつりと残っている。 廊下を吹き抜ける風に首を竦めて、銀時は体育教官室へと足を向けた。 ――去年のこの日は、いつものように退屈な日だったのを覚えている。 [たった、ひとつ] 女子は浮かれ騒ぎ、その女子らの机の横に、いつもはない手提げ袋を見つけて男子もどこかそわそわして見える。 そうしてクラス全体がそわそわした空気になって、先生がおっさんだったりすると、先生までそわそわして。 そわそわ。 ざわざわ。 いつもそうまとまったクラスではないが、いつにもまして落着きがないクラスメイトたちを横目に見ながら、 女子の連名で配られたチロルチョコを口に放った。 浮かれるヤツらを遠い世界のことのように眺めていた去年。 甘いものが好きな銀時にとって、バレンタインは嫌いなイベントではない。 銀時が甘味王だと知っているヤツらから初対面のヤツまで、どういうわけかチョコをくれる人は多かったし、 甘いものが嫌いだという土方や、持って帰るのが面倒だという沖田あたりからごっそり渡されることもある。 一週間ぐらい甘い物の心配はしなくていい。 そう、嫌いではなかった。好きでもなかった。どうでもよかった。 自分は当事者じゃない。 今年は、その浮かれるクラスメイトを見ることすら、なくて。 3-Gの札の掲げられた教室には人影ひとつない。その隣も、さらに先の教室も。 3年生はセンター試験の頃から自宅学習に入っているし、今日あたりは私学の入試本番だったり、国立組も試験まで残り 10日ほどというところでラストスパートをかけているのだろう、学校に来ているような物好きはいなくて当たり前だ。 じゃあ自分はなんでこんな所にいるのかというと、用があるから。それ以上でもそれ以下でもない。 そしてその用を果たすために体育教官室へ向かっている。 時間はもうすぐ放課というところ。 ”アイツ”を捕まえるには、ヤツが部活の監督に行く前に引き留めなければならない。 ・・・会えなくてもいい。会わない方がいいという気持ちもある。 会いたいという気持ちと同じくらいに。 メールや、電話をすることはあったけれど、一か月近くもう顔を見ていないのだ。 触れたい、抱きしめたい。狂おしく想う日もあった。 あったから、その欲求を満たしたいと思う。 あったから、顔を見ないでさえあんなに強い想いが、面と向かってしまったらどうなるのかが怖い。 らしくない、と、思う。 年頃の娘のように胸をときめかせながら、アイツのいるはずの場所へ向かっている自分なんて。 「ちィーす・・・・」 「桂先生、これ、今日バレンタインなんで!」 「あぁ、ありがとう」 結局覚悟を決めて扉を開くと、室内に教師は一人だった。 それはいいのだが、数人の女子が連れだってきゃいきゃいとやりながら、それぞれ桂にチョコを手渡している所だった。 受け取る彼の微笑に、心臓がどくんと鳴った。 桂はまだ、銀時に気付いていない。座っている彼の位置からでは、女生徒に隠れて入口にいる銀時は見えないようだ。 久しぶりに見たアイツの顔に、早鐘を打つ胸を押さえながら、気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。 ふと、チョコレートらしき包みがヤツの机に山と積まれているのが目に入った。 相変わらず人気なことだ。 転任してきてそう年数は経っていないものの、桂は男女、学年の隔てなく人気があった。 特にあのルックスは、奇怪な言動を差し引いてもおつりがくるほどの効果があるようで、ヤツが顧問になってから、 女バス部の志望者はぐっと増えた・・・らしい。 早く行かないか。 思考を切って、女生徒の後ろ姿に念を送った。 それが功をそうしたのかどうだかしらないが、女生徒の一人がこちらを振り返り、あ、と小さく声をあげた。 坂田先輩、と呟くのも聞こえた気がする。 その声に気づいたのか、他の女子たちも次々とこちらを振り返る。 銀時はどんな顔をしていいかわからず、真顔のままその視線を受け止めた。 桂も俺に気づいただろうか。 やだ、ちょっと私たち邪魔してるよ! なんて小声で囁きあいながら、そそくさと荷物をまとめる女生徒たち。 彼女らが部屋を出て行っても、桂の机と入口、微妙な距離を保ったままで、銀時と桂は向き合った。 「久しぶりだな、坂田」 「そーですか?」 「お前らが自由登校になってから、もう一月近くになるんだぞ」 とぼけてみせる銀時に、真面目に答える桂。 どんな反応をするか興味があって、銀時は問う。 「・・・寂しかったですか」 「まさか。・・・・・・いやしかし、寂しかったかもしれん。 落ち着きのないお前らの、賑やかな声を聞かんとどうもな」 そういえば坂田、お前勉強はちゃんとやってるのか。 そんな教師お決まりのセリフを、まァそれなりに、と適当に流しながら、銀時は歩を進めて桂との距離をつめた。 すぐ目の前、手を伸ばせば触れられる位置まで来て、足を止める。 「先生」 「なんだ」 「チョコ下さい」 「は? ・・・あぁこれのことか」 桂は机の上に築かれた山に目をやった。 「いいぞ。貰いものだが、好きなだけ持って行け」 「いーんですか」 「俺は大して食わんからな・・・どうしようかと思っていたところだ。 確かお前は甘いものが好きだったろう。 どうせなら好きなヤツに貰われた方が食べ物も喜ぶ」 「じゃ、全部」 「それは・・・」 さすがに腹を壊すぞ、と桂は眉をひそめた。 銀時はさらりと無視をして、持参した紙袋にチョコを放りこんでいく。 桂は呆れたようにそれを見ながら、一度に食べるなよ、とため息をついた。 山がすべて袋の中に消える頃、銀時はひとつ、小箱を掌にのせて、桂へと突き出した。 「なんだ」 「お裾わけです」 「お裾わけも何も・・・元は俺のだろうが」 「さすがに全部じゃ、俺も良心が痛むもんで」 「こんなもので痛まなくなるなら、お前の良心もたかが知れているな・・・」 呆れ果て、ついには笑みすら浮かべながら小箱を受け取る桂。 小さいが、綺麗にラッピングされたそれを手の上で転がしながら桂は、銀時の目をまっすぐに見た。 「ところで坂田」 「なんですか」 「どうやらこれには差出人の名がないようなんだが」 「なんか不都合でも?」 「大アリだ。お返しができん」 銀時は桂の視線から逃れるように目を伏せた。 桂の口元は僅かに笑んでいるようで、”すべて”見透かされているんじゃないかと、内心ヒヤリとした。 動揺を悟られないように、ボロが出ないように、慎重に答えを紡ぐ。 「いーんじゃないですか。・・・お返しはいらないって意味でしょ。気持ちだけ受け取ってー的な」 「それがだな、直接渡してくれた生徒はこの通り、名前を控えてあるんだ。俺の不在の時に置いて行ってくれた生徒も大概、 メモを残してくれていた。これはそのどちらでもない。・・・見覚えがないんだ」 「こんだけいっぱいありゃあわからなくもなるでしょう」 「そうかもしれん」 「・・・・・・・」 「・・・・・・・手先が器用なんだな、坂田」 「・・・・・・・バカツラ」 「何を言う」 むっとする桂に対して、銀時はぼりぼりと頭をかいてはぁーと深くため息をついた。 「ったく・・・バカのくせにこういうわけわかんねーとこ鋭いんだもんなぁ・・・・」 「バカとはなんだバカとは。担任に向かって」 「バカだからバカって言ったんですー」 「バカじゃない、桂だ」 「なんでもいーから。とりあえず、食えよ。それ。 で、他のヤツからはもう貰うな」 「別にかまわんだろう。義理のひとつやふたつ、貰わん方が義理を欠く」 「俺がかまう」 「・・・・勝手なやつだ」 銀時は最後の一歩を進めて、桂を腕におさめた。 ぎゅうと抱き寄せると、懐かしい匂いがする。お盆に行く田舎の祖父母の家のような、香とも何ともいえない微妙な匂い。 コイツはそれなりに若いはずなのに、なんでこんな匂いがするんだ。 抱きしめるたびそう思った。 抱きしめられたまま、桂が耳元でぼそりと呟く。 「おい、人が来るぞ」 「先生」 「いい加減に離せ」 「俺以外に、こういうことさせちゃダメですから」 「心配するな。お前くらいだ」 こんなセクハラを仕掛けてくるヤツはな・・・、疲れたように言う桂に、銀時はようやく腕を解いた。 「じゃあ俺、帰りますンで」 「あぁ。 進路が定まったらさっさと報告に来いよ。 合格の通知もな」 「メールじゃダメですか」 「会いに来い」 言った方はいたって平然としていたが、言われた方の銀時は思わず頬が熱くなるのを感じて、ふいと視線をそらした。 わかりましたよと呟くのが精いっぱいだった。 最後のあがきとばかりに軽口をたたく。 「先生、お裾わけのお返しは手作りクッキーがいいです」 「・・・なるほど。じゃあ俺は蕎麦でも奢ってもらおうか」 「ホワイトデーのお返しが蕎麦って、意味わかんねェ・・・」 「いいだろう別に。好きなものを食って何が悪い」 「まー別にいいですけどねー」 「頼んだぞ銀時」 ダメ押しに名前なんて呼んだりして。無意識にしろ意図的にしろ、タチが悪い。 思いながら銀時は後ろ手に体育教官室の扉を閉めた。 アイツの言動にいいように振り回される自分が情けなくて、でも、悪い気分はしないから不思議だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ バレンタイン記念で展示していたものでした。俺のチョコだけ食え、な銀さんが書きたかったんです・・・ 何事にもマイペースな銀さんが、唯一ペースを乱される相手が桂だといいなぁ、なんて。 ちなみにホワイトデー話にも微妙に続いたりします。
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