手が何か固いものにあたる感触に、意識を引き戻される。 「おっといけねェ」 時すでに遅し、机の上に湯呑の中身がぶちまけられた。 大して残ってもないような気がしていたのにそこそこの範囲が水没して沖田は、面倒くさ、思いながら横倒しになった湯呑を拾い上げた。 考え事をしていた。 とはいえ、こんな不注意、らしくもない。 ふと、時計に目をやった。時はもう、丑三つに差し掛かるころだろうか。静かな夜だった。 ゴールデンタイムのバラエティを楽しむ連中を尻目に、飲み物片手にさっさと自室に引き揚げてからそう経っていない気がするのだが、 何をしていたでもないというのに、時間の経過とは早いものだ。まぁそれはそれとして、片付け、片付け。 水をはじく素材のものは軽く振って水気を飛ばしてから、無造作に畳の方へ放り投げる。 紙類は、まァ大して大事なものもないだろうと、ぽいぽい屑入へ放り込む。と、 「あちゃー」 紙束の山の中にあった一枚の紙片を沖田は摘まみ上げた。 他の仕事の書類やらチラシやらより一回り小さいそれは、丁度一筆書き程度のサイズ。 中心には朱墨で精緻な文様、その周りをびっしりと覆う細かい文字。なんと書かれているかは知らない。 わかるのは自分が指定されたところに書き込んだ「土方」の文字のみ。 一言で言うならそれは”お札”だった。 『何かお悩みでしょう』 見るからに怪しい奴だった。 不審者の鏡、職務質問したくなるタイプという方向でなく、得体のしれない、関わらない方がいいんだろうなァという方向に。 全身黒づくめ、ずるずるとした衣装を着て。申し訳程度に机と椅子、易でもやっているんだろうか。 にしては、人っ子ひとり通りゃアしねェようなひっそりとした小路にぽつり、佇んでいた。 通りがかったのは偶然だ。そいつを無視せずに、少なくとも足を止めたのもまた、偶然。 『何でィ、アンタ』 『お悩みでしょう。この札をお持ち下さい』 口上も売り込みもなかった。 いっそ、そうプログラムされたカラクリかと思うくらいに何もない動きで、奴はそれを差し出した。 『この札には魔を払う力があります。こちらに対象のお名前を。そうすれば彼の体から悪いものは出て行くでしょう。  彼を惑わすそれは』 『は? おい、何言っ』 『お持ち下さい』 押し付けるでもなく。 ただ淡々と告げて、机の上にそれを置いた。 新手の商売かとも思ったが、俺が札に手を伸ばしても奴は微動だにしなかった。 『お役立て下さい』 『・・・・・・・』 薄暗い小路、札を見分しようと、わずかな斜光に紙片を透かす。見たこともない文字の羅列に匙を投げる。 『おい、これァ―――』 流石にその時は背筋がゾッと冷えた。 ほんのついさっきまで眼前にいたはずの奴は、俺が一瞬、目を外した隙に忽然と姿を消していた。 数日前の出来事を思い出しながら、沖田は手の中の札を見た。 べしょべしょに濡れてしまったというわけではないが、文字が滲んだり他の紙から墨が写ってしまっていたりする。 朱墨の紋も、さらに何が何だかわからない。こりゃあ駄目だな、と、他の紙と一緒に屑入へ送った。 トッシーは消えたんだろうな、となんとなく思った。 このうさんくさい札と土方に降りかかった珍事、結びつける根拠はないが、否定する証拠もない。 好奇心で書き入れた名前、まさかあんな効果が現れるとは思わなかったが、土方を散々悩ませてやれて結果オーライだ。ざまぁみろ土方。 「・・・・・・・」 土方、の言葉で、昼間の光景がフラッシュバックする。奴と、トッシーと、旦那と・・・アイツ。 「・・・・・馬鹿ですねィ」 あの人のことだ、気づいてないんでしょうね。 ピン、と湯呑をはじく。中身も入っていないそれは軽い手ごたえと共に、簡単に横倒しになった。そのまま転がって、床へと落ちる。 低い机だし、床は畳。鈍い音を立てただけで、勢いの続くまま畳の上を転がっていく。 結局それは部屋の隅、襖にコツリと当たってようやく動きを止めた。 沖田は止めるでもなく、ぼんやりと湯呑の行く先を眺めていた。 「あんなののどこがいいんだよ」 音になっていたことすら知らず。 呟いて、沖田は唇に微かな笑みを刷く。 夕方、顔を合わせた土方を思い出す。トッシーと雁首並べて、辛気臭い顔で食事をしていた。情けねェツラ。何があったのか知らないが。 思って、声はかけなかった。あの野郎の頭の中が何でいっぱいかなんて、聞かなくたってわかりきってた。 アイツはきっと今も、剣のことでも真選組のことでも近藤さんのことでも俺のことでもなくて、ずっとずっとそれらでいっぱいだったはずの頭ン中、 別のことで埋め尽くしてる。 トッシーだけじゃなくて、一部分だけじゃなくて、アイツが、奴に、桂に、浸食されていく。 トッシーがいてもいなくても、もう、奴が見てんのァ――― 重力に負けるようにばたりと身を真後ろに倒して、そのまま大の字に腕を広げる。少々肌寒いが、もう布団を敷くのも億劫だ。 このまま目を閉じていれば、いずれ眠りが訪れるだろう。そしてしばらくすれば嫌でも目が覚める。 起きたら真っ先に土方をからかいに行ってやろうと思った。 そんであの情けねぇツラを見て、俺はまた苛立たされるるんだろう。 想像するだに腹が立ってきて、身を起こした。今夜は眠らなくてもいいか、思いながら、机の引き出しから編みかけの藁人形を取り出した。 襖の下、拾われもせず横倒しになった湯呑が、静かに存在を主張していた。 ――たとえばまたあの辻占に出会うことがあったら。 俺は足を止めるだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 真相編というかなんというか。沖田の仕業でした。 沖田はめっちゃ土方が好きです。彼はトッシーが桂を好きだと思ってます。 トッシーさえ消えれば桂に惑わされることもないんじゃないか、と思った結果がこれだよ、という。 桂受ならともかく、トッシー桂の話に沖土持ち込むのはどうだろうと番外扱いにしてみました。 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!       ・BACK・