3月も半ばにさしかかるある日。 一通のメールが届いた。 今週の土曜、夜6時に大江戸シネマ前。来れるか? 唐突な文面。携帯のディスプレイを見つめたまま、銀時はしばし思案する。 送り主の名前を見た時点で、答えはもう決まったようなものだったけれど。 好き。好きだ。そう、大好きなはずのひと。 想いに突き動かされて、馬鹿なことをしでかしたこともある。 アイツは本気にしなかった。それでよかった。そうでないといけなかった。 意識されたら困る。 先に進めなくていいから、折角手に入れたこのポジションを明け渡したくなかった。 アイツが気を許せる人間でありたかった。 学校という体制の中で、俺は、俺たちは、穏やかで生ぬるい関係の上にのうのうと眠り込んでいた。 それにももう、けりをつけなきゃいけない。 卒業式を終えて、俺とアイツは他人に戻った。生徒と先生の関係は終わったんだ。 俺が生徒でなくなったら、アイツにとって俺はどうでもよくなるんだろうか。 今だって気が遠くなるほど遠く感じるアイツは、もっと俺から離れていくんだろうか。 そうして、アイツが先生でなくなったら、俺の興味も薄れるんだろうか。簡単に割り切って、忘れて。どうでもよくなるんだろうか。 そうだったら、楽なのに。 了解。 短い返事を打ちこんで、手早く送信ボタンを押した。 動揺する気持ちを、悟られまいとするように。 17時45分。待ち合わせ時間にはまだ早い。 思いながらたどり着いたそこには、もうすでにメールの送り主が待ち構えていた。 いつものジャージ姿でなく、珍しくスーツ姿で。しきりと動かしている目線から逃れるように、銀時は巧妙に人波に紛れこんだ。 そうしながら、自分を待つ彼の様子を観察する。 桂。 久方ぶりに見る姿に胸がざわめく。 およそひと月ぶりだ。 この一か月、俺は一度も学校へ足を向けなかった。再三のメールにも電話にも、応えなかった。 先ほどまでだって、何度踵を返してしまおうと思ったかしれない。このまま放って帰ってしまおうと。 できなかったから、ここにいる。遠くからこそこそアイツを眺めている。 見つかったら、悪趣味だな、とかなんとか、嫌味を言われそうだ。それより先に、音信不通の不義理をたしなめられるか。 17時57分。時刻は迫る。人の流れから一歩抜けて、銀時は桂との距離を詰める。 こちらに向かって来る人影に気づいて、桂はほっと息を吐いた。 「・・・来たか」 「うィーす」 何か続けようとした桂は、ダルそうに挨拶をした銀時を見つめて、言葉を音にしないまま口を閉じる。 「・・・何の用ですか、先生」 言いたいことがあるなら言えばいいのに。 胸がチリつく。言葉が棘をはらむ。 「うむ。ゲロロ見るか」 「・・・は?」 「そうだな、とりあえずゲロロでも見よう」 「え? おかしくね? なんで大の大人が揃ってガキ向けアニメ?」 「心は少年だろう。俺もお前も」 きらきらと目を輝かせる桂の手には、いつの間にか劇場版ゲロロ将軍のパンフレット。もうすっかりその気らしい。 もしかしてコイツは、一人で映画を見るのが恥ずかしくて俺を呼んだんじゃないか。 一瞬よぎった考えを、銀時は自ら即行で否定した。この男なら小学生にまじって一人で見るくらいはなんなくやってのける。 ついでに号泣のオプション付きで。 その横に自分の姿を思い描いて、銀時は顔を引きつらせた。 「遠慮します」 「面白いぞー、ゲロロ。パンフ見るか」 「遠慮しま・・・」 「今回のゲスト声優、ほら、この女優だ。お前好きだったろう」 「遠慮・・・・」 「ゲロ・・」 「しつけーんだよォォォォ!!!」 思わず全力で桂にツッコミを見舞う。渾身のチョップを頭に受け、しかし桂はふっと相好を崩した。 その笑みの鮮やかさに思考を奪われる。すっかり奴のペースに乗せられている。 「・・・・調子が出てきたではないか。行くぞ。上映に間に合わなくなる」 「テメ・・・」 もごもごと小声で毒づきながら、銀時はしぶしぶ桂の後に従った。 場面は中盤のクライマックスを迎えていた。 主人公の少年と親友のカエルの天人。その仲間たち。敵のアジトに侵入した彼らは、黒幕の計略によって離れ離れに分断されてしまう。 まァありそうな話だ、きっと友情の絆とやらで合流を果たすとか、そんなオチだろう。気のない調子で銀時は口にポップコーンを放りこむ。 主人公が仲間に呼びかける悲痛な声が、場内に響く。 もさもさと口の中のポップコーンを咀嚼しながらチラリ、横に座る桂を盗み見れば、彼は眉根を寄せてスクリーンに見入っていた。 つぅ、と、その頬を涙が伝う。 スクリーンの明かりでぼぉっと闇に浮きあがる端正な顔。 光る涙。 ごくりと、口の中の物を飲み下した。 なんでこんな状況になっているんだろう。 メール一通打つのにも苦悩していた自分が馬鹿らしくなってくる。 ――コイツなら大丈夫なんじゃないか。学生と教師じゃなくて、ただの二人になっても。 そりゃあ毎日は会えないだろうが、こうして、たまには二人で遊んだりして・・・ あのぬるい関係を、維持できるんじゃないか。 『甘いな、お前は』 映画の声にハッと我に返った。桂に気づかれないうちに視線を戻す。 ポップコーンをまたひと掴み、口へ運ぶ。目だけは画面に向けながら。 そう、わかってるんだ、本当は。学生と教師なんて、そんな関係じゃ、距離じゃ、満足できない。 ――バレンタインの時の言葉が忘れられない。 会いに来い、なんて。 期待させて。 期待したってどうせ裏切られるだけだろうのに、否が応にも考えてしまう。 アンタにとって俺は特別? 「雨か」 先を行く桂が呟いた。 後に続いて映画館を出てみると、重く立ちこめる雲。 人々の傘に彩られた大通り。 大雨、とはいわないまでも、無視できる程度の量でもなかった。 「困ったな、このあとはクレープの食べ歩きと決めていたのに」 「・・・どんなデートプランですかー、それ」 「だってデートだろう。今日は」 「・・・・・・・・」 こともなげに言われて銀時は絶句する。 この野郎。 ふと、置き忘れらしいビニール傘が目に留まった。 それを拾い上げて、銀時は桂の背中を押す。 「む」 「いーから。・・・とりあえず行きましょ、先生」 「お前傘なんて持っていたか?」 「二次元ポケットから出したんです」 小さな傘に二人、身を寄せ合うようにして通りに出た。 「銀時」 静かだった。 無数の話し声と、足音と、水を跳ね上げる音。流行りの音楽。 それらに囲まれてなお、二人の間は静かな沈黙に満たされていた。 先にそれを破ったのは、桂。 「この一か月ほど、元気だったか」 「元気でしたよ」 「受験は。 受かったのか」 「落ちたんなら今こんなとこでのんびりしてません」 「それもそうだな。 ・・・銀時」 「なんですか」 「なぜ、会いに来なかった」 思わず足を止めてしまいそうになった。 なぜってそんなの、自分にもわからないのに。 多分俺は自分の気持ちと向き合うのが怖かった。向き合って、打ち砕かれるのが怖かった。 自分の中で答えは出ていた。俺にとってアイツは特別。でもアイツにとって俺は? きっと教え子の一人で、それ以上の何物でもない。それなら、そんな答え、聞きたくなかった。見たくなかった。 会ったら、声を聞いたら、離れられなくなる。でも俺の望む関係とアイツの望む関係はきっと同じじゃない。 それならこのまま忘れてしまいたかった。 心のどこかで期待する気持ちもあった。バレンタイン。自分の分だけ受け取らせたチョコレート。でも。 俺は高校を出る。 俺たちの場所はいつだって学校で、学校の外でこんな風に会ったことだってほとんどなくて。 あの狭い空間の中でだけ成立している関係。あの空間の中でなきゃ、成立しえない関係。 それ以上でもそれ以下でもない。違うというのか? 銀時が言い淀んでいたからか、桂は言葉を続ける。 「合格が決まったら来いと言っただろう。学校の方でも掲示を出したりなんたりと手続きがあるのだぞ。  ああそうそう、それとな」 鞄の奥の方から小さな包みを取り出す。 「これも渡せなかった。 賞味期限が危ういかもしれんが自業自得だからな」 手に乗せられたのは手作りと思しきクッキーの包み。 カァっと頭に血が昇る。 「・・・・・・・・どーいうつもりなんだよ」 「何がだ」 「どうして、こんなこと」 「どうしても何も。 バレンタインのお返しだ」 「だから! なんで、わざわざ・・・・ッ」 「もらったら返すのは礼儀だろう」 「そうじゃねェよ・・・・・」 受け取られないまま、クッキーは寂しく桂の手の上に乗せられている。 「俺が聞きたいのは、どーいうつもりでお前がこういうことしてるかってことだよ!」 「だから、礼儀・・・・」 「礼儀? 義理? ・・・ハッ、そうだよな」 「銀時? どうした、お前――」 「いらねェよ」 おかしい。俺はおかしい。 いつもならもっとへらっと笑って、貰えるものならなんでも貰う、甘いものなら上々ってなもんで、こんな風に、波風立てたりなんて。 アイツを困らせたりなんてしないのに。 桂はそうか、と言って、しかしそれでも手は引かなかった。 「・・・受け取ってもらわねば困るのだが」 「・・・・・あァ?」 「俺はお前の気持ちを受け取った。お前にも、受け取ってもらわねば一方通行だ」 「・・・・・いい加減にしろよ。何言ってるかわかって」 「好きだ、と。言っているつもりだが。 遠回し過ぎたか」 思わず傘を取り落とした。 周囲の非難の目を浴びながら、それでも銀時は動けなかった。 桂が傘を拾い上げて、二人の上に掲げ直してもまだ、茫然としていた。 「・・・・う、そだろ」 「嘘じゃない」 「だって、俺とお前は」 「恋人同士、じゃないのか」 「アレは・・・なんつーか、先生と生徒のスキンシップ?」 「ほう。じゃあ俺の思い違いか。好かれている自信はあったんだがな。そうか弄ばれていただけか」 「ちげーよ! ・・・俺はむしろ、てめーの方が」 「本気じゃなかったと? 俺が、」 貴様のはっきりしない態度に、どれほど心乱されてきたと思っているんだ。 次々与えられる衝撃的な言葉のつぶてで、頭がガンガンした。 桂は止めない。 「別に、はっきりさせなくてもよかったんだ。お前は、どうやら俺を慕っていてくれて、少なくとも学校の中ではそれでよかった。  だが、お前はもう学校の籍を抜けるだろう? 自由登校になっただけでろくろく顔も見せんお前だ。 春からはまったく会えなく  なるんだろうと思った。 そんなの、嫌なんだ、俺は」 お前はどうだか知らんがな。 激することもなく、淡々と落ち着いた声音で吐露されていく桂の心情。 それにつられるように、銀時の口からも自然と言葉が滑り落ちた。 「そんな風に思ってたんなら、早く、言えよ」 「うむ。 俺も色恋沙汰に関しては臆病だということだろうな」 「俺は、・・・・終わりにするつもりだった。 高校と一緒に、テメェのことなんざ忘れるつもりだった」 「ひどい男だ」 「いい機会だと思ってよ・・・・中途半端な関係にケリつける、いい、機会だって」 「ほぉ」 「・・・・・俺は」 すぅと息を吸って、気持ちに勢いをつける。 「もうお前の生徒じゃねェ。 先生なんて呼ばないし、敬語もなしだ。  俺とお前は対等で、まったくの他人だ」 「それで?」 「・・・もう遠慮なんかしねーよ。全力で奪いに行くから覚悟しとけ」 「・・・・・望むところだ」 桂はふっと口元を綻ばせた。こらえきれずに抱きしめる。 あーこんな人前で何やってんだろう俺、とか、思わないでもなかったが、今は、今だけは。 「桂」 「・・・銀時」 「・・・・・・・・小太郎」 「いきなり呼び捨てか、貴様」 「赤くなってやんの」 「うるさい。 ・・・おい、人が見ている」 「知らねーよ」 「濡れる」 「もっとひっつけばいいんじゃね?」 「現金な奴だ。 フフン、そんなに俺と離れるのが嫌だったのか?」 「は? 何言っちゃってんの? それはお前だろ」 「案ずるな。 これからは家に訪ねてくればいい」 「・・・んじゃ今から行っていい?」 「ここでこうしているよりはずっといいな」 背中に回していた手をほどいて、桂の肩を抱いた。 雨が降っていてよかった。傘でニヤけた顔を隠せるから。 振り回しているつもりが振り回されている。いつもそうだ。 ヤツの言動はいつだって突拍子もなくて、俺はペースを崩されまくりで。 気に食わないはずなのに、腹だって立っているのに、嫌じゃない。 どうやらまだこの関係は続くらしい。形を変えて。俺はまた一歩距離をつめて。 眩暈がする。頭痛もする。 辟易した気持ちと、期待と――嬉しいなんて、本当は認めたくないけれど確かに自分は今舞い上がっている。 銀時は、となりにいる桂に気づかれないように、そっと小さくため息をついた。 桜並木も雨に濡れていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 予想外に長くなってすみません。絶対書いておきたい話だったので熱が入りすぎました。 バレンタインを書いてしまった手前、ホワイトデーは書かざるをえないけど、でも3月話を書くなら絶対卒業絡む→ となると暖めていたあのネタを・・・ってなわけでできあがりました。 このあと大学生銀時×高校教師桂を書くか、はたまた過去に遡る感じにはなりますが高校ものを書き続けていく かは未定です。どちらになってもお付き合い頂ければ幸いですv       ・BACK・